運動と健康について(初夢雑感) | 佐野市スポーツ協会

運動と健康について(初夢雑感)

秋の三毳山

佐野市スポーツ協会会長 阿 部 茂

 明けましておめでとうございます。皆様方には清々しい新年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 さて、昨年10月頃、新型コロナウイルスの感染者が激減し、11月には各方面で規制が緩和され、いよいよ復興に向けた活動が再開されると期待した途端、新たなオミクロン株の流行と言う予想もしない事態になりました。今までの我々の対応が徒労であったようで憤懣やるかたない心境ですが、これはじっと我慢するしかないようです。数十年前、とある医学博士が「21世紀を席巻するのはウイルスである」と含蓄のある言葉を述べていたことを昨日のことのように思い出します。
 「ウイルスは完全には駆逐できない、何故なら我々と常にそこにあるから。だから共存するすべを模索することが肝心だ」(これは私見です。)

 ここで、正月の初夢のように浮かんだ取り留めのないことを綴ってみました。
○ 自画自賛
 小生、昔から「駆けっこ」が好きで小学生の頃から運動会や地区の体育祭に選手として出場していました。しかし体が小さいので体格の大きい者には勝てず、随分悔しい思いをしました。中学生になると兄二人に倣って陸上競技部に入り、最初は走り高跳びを中心に取り組んだのですが、この種目は当然ながら身長の高い方が断然有利なので、水平方向なら影響が少ないと思い走り幅跳びへ変更しました。こちらは走力が不可欠なので、短距離走の練習を積極的に行ううちにスピードが付き、それなりの成果は挙げることが出来ました。しかし高校・大学と自分なりに努力はしたものの漫然と与えられた練習をしていた為に記録は向上せず、競技レベルは中学生時とあまり変わりませんでした。
 それが突然、記録が目に見えて向上するようになったのは、社会人となり一人で練習をするようになってからでした。この頃、海外の陸上関係資料や専門誌などを読み漁り、脚の短い自分がどのような動きを身に付ければ速く走れるか、マンネリ化した練習を工夫改善して取り組むようになってから、記録が飛躍的に向上するようになったのです。今思うに「やらされていた練習」を「自ら考え工夫したこと」が良かったのだと実感しています。根底には自分を「短足協会の会長」と卑下しつつ、本音ではでっかいやつらに負けるもんかとの反骨精神があったればこその成果でした。

○ フレイルにならないよう健康づくり
 体力づくりの為、週2度ほど近くの「みかも山」(俗称:年金山と言う)を歩きます。自然の中で仲間とたわいもない話をしながら汗を流すことでストレスの解消にも繋がり、心身の健康づくり、果ては生活習慣病の予防になっていると思います。
 最近、健康寿命という言葉をよく聞きますが、長生きを楽しく有意義なものにすべく病気やケガをせず日常生活が送れるよう食生活も含め気を使っています。フレイル状態(加齢により心身が衰えた状態)が最小限になるよう、極力自らの体を自力で操ることを心掛けたいものです。
 最近、多くの医療関係者がフレイル予防、健康寿命延伸に向け「運動することは医療である」と主張しています。コロナ禍の自粛生活で外出が減り体を動かすことが少なくなっている現状は、不健康に拍車を掛けています。″スポーツをしなければならない″なんぞと固く考えずに、まず体を動かすこと。出来たら外が良いが室内でもOK。歩いてみよう、体の曲げ伸ばしをしよう、といった程度の簡単に出来ることから始めましょう。

〇 不易と流行(変わることと変わらないこと)
 コロナ禍の中、多くの活動が思うようにならず、スポーツもご多分に漏れず沈滞と低迷に陥っています。この機にふと思うことがあります。それは「不易と流行」という言葉です。世の中の移り変わりに順応すべく考え方や行動を変えていくこと(流行)は大切ですが、いつの世も変わらずにある普遍的なこと(不易)も忘れてはなりません。
 スポーツも、需要と供給の関係で流行り廃れが繰り返されていますが、商業主義に振り回され本来の意義を失いつつあるスポーツもあります。勝利至上主義の弊害、プロ入りのため予備校化したアマチュアスポーツ、勝つために手段を選ばない指導者、燃え尽き症候群(バーンアウト)に陥る若い選手等、いまだに古くて新しい課題が横たわっています。
 スポーツの存在意義って何なのか。心身の健康や体力づくりのためであったり、競争による人心の高揚を図る手段であったり、人間関係を醸成する手段であったり、見世物(ショウ)的なものであったり、さらには金銭や名誉を獲得する手段であったりと時代によってさまざまに変遷してきた。しかし、その中でも普遍に変わらない意義はある。本当に必要な意義は必ずや自然淘汰され残っていくであろうと思うが皆様はどうお考えでしょうか。